2009年03月24日

佐賀の数え歌

現在「佐賀県佐賀市の恵比須さん 長崎街道西コース」シリーズを続けています。
シリーズの「1〜3」で紹介した案内板の内容が少し分かりました。
佐賀民俗学会の金子さん、当館で仁和加を指導してくださっている平尾さん、佐賀県立図書館のスタッフの方の手をわずらわせてようやく、なにがしかにたどりつきました。

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佐賀城下長崎街道西の入口

八戸町の西の端、深町井樋に架けられた橋が高橋で、現国道207号線の新高橋と街道筋の旧高橋は50mほどはなれ、平行に架けられている。
旧高橋は慶長年間、佐賀城下町建設のときに架設され、ここに蕃所が設けられたと考えられる。
扇町街道から旧高橋にさしかかる鍵型の辻路は、嘉瀬方面から押し寄せる敵勢を本庄江でくい止めるために作られたと伝えられる。
高橋は本庄江を航行する船の往来を便利にするため、橋桁高く持ち上げ、船の帆柱や竿が支障なく通るようにしたため、その名が起こったと言われている。

江戸時代まで高橋の市場には集散する船の積荷で賑わっていた。
一(市)は高橋、二(荷)は牛津、三(産)は泰順、四(詩)は安道、
五(碁)は但馬、六(禄)は諫早、七(質)」は成富、八(鉢)は皿山、九(句)は十万庵 という数え歌のように、高橋周辺は市として栄え、瓦屋、かまぼこ製造屋、元詰紙製造屋などがあった。

と書かれている。数え歌が英語で説明されていないのが残念だ。



一(市)は高橋・・・
この場合佐賀市嘉瀬町の高橋を指すが、検索すると武雄市の高橋がヒットする場合もある。二は省略。

三(産)は泰順・・・
産科医北嶋泰順のことと思われる。

四(詩)は安藤・・・
古賀朝陽(1773〜1837)のことであると思われる、
轟木村生まれ、古賀精里に師事、医術と儒学を兼ね、また詩と書にも秀でた。著書の「朝陽詩集」ほかがある。と「佐賀の文学」に記述がある。

五(碁)は但馬・・・
「鍋島直正公傳」に家老鍋島(横岳)主水の嫡子。鍋島(倉町)大隈の長男にて志摩の兄なり。後に主水茂延となのる、当時家老壮年の一人物にて碁を善くせりとある。

六(禄)は諫早・・・
龍造寺一門に対する鍋島一門の創出・強化策により寛永五(1628)年に小城鍋島家が成立するまで「御親類同格」の諫早領が最高の禄高であったことによると思われる。

七(質)は成富・・・
昭和27年発行「佐賀市史 下巻」産業編に、材木町や紺屋町は、今宿江に近く、藩政時代には片田江小路と水ヶ江小路および鷹匠小路の武家屋敷を控えて、その諸用達を務めていた商家町で、材木町の蔦屋は文房具、紙類、漆器類、釜屋は有名な特産の元結、鬢付、油、蝋燭などを商い、松永は呉服類、野中は烏犀円(うさいえん)、それから五丁目までの間には仁戸田醤油屋、トロ倉(成富質店)など数代の衛氏の豪商−(えし)とは足軽以下の身分で商売を許され苗字帯刀をも許された商人−たちが軒を並べていた。とある。

八(鉢)は皿山・・・
有田の皿山であろう

九(句)は十方庵・・・
「佐賀の文学」によると。十方庵画山は雲左坊とも号す。俳諧だけでなく日蓮僧十方院日唯上人としても大いに活躍した人物。文政三年には観照院の住職の地位にあり。とある。



参考資料


杉谷昭・佐田茂・宮島敬一・神山恒雄著「佐賀県の歴史」
杉谷昭著「鍋島閑叟」
佐賀市史下巻  佐賀の文学 蓮池藩史 鍋島直正公傳




恵比須さんの笑顔と近辺の犬・猫、あるいは木々草花にふれながら、永遠と刹那の命に愛おしさを感じて取材を続けてきました。
漢字の多用をやめて、なるたけひらがなを使おうと思っていました。できるならやさしく〜。その矢先、
今回のような時代がかった路地に寄り道をしています。
先はそう長くないはずなのに、思うようには行かないものです。
その時に努力をしなかったツケでしょう。
“ふくらむ気持ち”を取り戻したいものです。

今夜も長らくおつきあいくださり、ありがとうございます。



<ゆっつら〜と館 T>


posted by スタッフ at 01:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 佐賀市の見もの
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