10月20日、佐賀の祭りその3 は浮立についてです。
記事のアップが斯様に遅れたのは相当の訳がある。
相当であるからして、容赦されたい。
浮立は「風流」の当て字で、雅やかなもの、人目を引く風情のあるものといった意味があるそうだ。
講師のいわれる「人々の浮き立つ心を言いあらわしている〜。」というのも納得。
佐賀県を中心とする肥前一帯には大太鼓、小太鼓、鼓が中心となってリズミカルな奏楽を奏でる「皮浮立」と、大鉦や小鉦が中心の「鉦浮立」には、頭上に大きな月形を踊り手が舞い踊る天月(天衝)舞浮立、鬼面を付けた踊り手が集団群舞する面浮立があるそうだ。
毛槍や奴がが登場する「行列浮立」「獅子浮立」「舞浮立」もあり、旧武雄領に伝わる「荒踊り」や「かんこ踊り」も浮立の一種とされているそうだ。
佐賀市近隣で一番馴染みの深いのが「天衝舞」だろう。
佐賀市神野町にある掘江(手偏ですよ)神社、鍋島町蛎久の蛎久天満宮、蓮池町の小松に伝わる
それぞれの天衝舞に伝承・伝説があり興味深い。
見づらいかも知れないが、モニターに映っているのは
「大口袴」(おおくちはかま)。
現在では、能、歌舞伎で用いられている。
腰の部分が横に張り出している。
天衝舞で用いられるゴザはこの代用である。
「玄蕃一流奥傳巻」に、大口の代わりに藺筵(いむしろ)使ってよい、と書かれているそうだ。
巷間いわれる「舞い損ねた折は、その上で自害する...。」は
舞の厳格さを物語るのだろうとの説明がなされた。
これらの民俗芸能はその土地土地により様々な要素が加味され伝承されているのだが、「さてオリジナルはどれだ!」などと才気走ると、本質を見失う怖れもあるが、掘江神社天衝舞は
掘江大明神(掘江神社)の祀官 掘江玄蕃が雨乞いの為1556年に創始したと伝ている。
他方、川副町の由来記「玄蕃一流奥傳巻」は「徐福伝説」を想起させるようだ。曰く、「始皇帝の命を受け不老不死のの薬草を求め諸富町の寺井津に上陸した徐福一行を、ここの住人玄蕃亮恒利が浮立大神楽を再興して金立山に同道した、とあるそうだ。
蛎久天満宮のそれは、天満宮左手に祀られている「竜樹菩薩」に由来するという。
漂着した巨大な仏像を引き上げようとしたが、あまりの大きいので動かない!老若男女が笛太鼓、面白く囃し立て、浮立のおかげで引き上げることができたといわれる。
蓮池町の小松神社(祭神 平重盛)の「小松浮立」のいわれは、
情として心に沁みる。
「神埼の荘」をはじめこのあたりには平家の荘園がいくつもあったに違いなく、清盛の子「小松殿」とされた重盛の名前がこの地区名に遺されたとしても不思議ではない。
さてその浮立だが、平家隆盛の頃、築港の際に海神をなだめるために囃した浮立であるといわれているらしい。ここの浮立には笛が用いられないことから「笛なし浮立」とも呼ばれているようだ。
何故笛を用いないか、深い訳が〜。
平敦盛(たいらのあつもり)という人物がいた。
清盛の兄弟 常盛の三男。清盛の甥にあたる
一の谷の合戦で源氏の武将熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)に若干16才で討たれる若武者である。
敗色が濃くなり、海へと逃げる際、愛用の笛を取りに戻った彼は
直実と遭遇、命を落とすことになる。
写真左:敦盛草 右:熊谷草
このことに関しては、下の資料にリンクを張っておきます、敦盛と直実の対峙についての講談をぜひお聞きください。
蛇足ですが、彼らの名前を冠した植物があります。
「アツモリソウ」「クマガイソウ」(熊がいそう)ではありませんよ。
リンクを辿って講談を聞かれた方はその植物の姿形もまた印象深くなるでしょう。
カタカナ表記では、
その名前に込められた故事も、由来すらも見えなくなる。
資 料
敦盛と直実
以前取材したものです。金子先生に助けていただきました。
蛎久天満宮の天衝舞
掘江神社の天衝舞
今夜も長らくおつきあい下さり有難うございます。
<ゆっつら〜と館T>
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